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人生の意味とは何か…!? [科学]

科学とオカルト (講談社学術文庫)

科学とオカルト (講談社学術文庫)

  • 作者: 池田 清彦
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2007/01/11
  • メディア: 文庫


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 「科学は万能」という錯覚

 科学は万能であるというのは錯覚なのだけれど、若い時に、この錯覚にとりつかれてしまう人は少なくないようだ。若い時にこの錯覚にとりつかれ、大学に入って目が覚めたという森岡正博は『宗教なき時代を生きるために』(法蔵館)の中で次のように述べている。

 私が物理学ということでやりたかったのは、この世界がどうしてあるのか、この世界に私が生きている意味とは何か、私が死んだらどうなるのか、そういう問題を、自分自身の頭で、自分自身がいちばん納得できるようなやり方で、考え続けてゆくことだったはずだ。このまま自然科学の世界に入っていっても、そこでは、これらの問いに対して、私がほんとうに納得するような答えは得られないような気がする。自然科学というのは、こういう種類の問題を脳裏から追い払うことで、なんとか成立している学問体系なのではないか。(33頁)

 医学は、人間が死んでゆくプロセスがどのような生理学的なプロセスかということを、詳しく解明することができます。しかしながら、その人間が死んだらどうなるのか、死んだらどこにゆくのかということはけっして教えてくれません。しかし普通の人間がいちばん知りたいのは、人間の死にゆく生理学的なプロセスなんかじゃなくって、その人間が死んだらどうなるか、どこへゆくのかということでしょう。そういう、我々がいちばん知りたいことに対して、科学はまったく答えてくれないのです。(40頁)

 いくらそのような生命科学が進歩したとしても、決して答えの出ない問いがある。それは、そういう研究をしているあなた自身の生命の意味である。あなたがこの世に生まれてきたのはなぜか。そしてあなたがやがて死んでいかなければならないのはなぜか。そういう問いに、生命科学は答えることができない。そして、いまここで生きているあなたの人生の意味とは何なのか。人生の目的とは何なのか。そういう「いのち」の問い、「人生」の根本問題に、自然科学はなにも答えてくれないのである。(42~43頁)

 ここで森岡の述べていることは、基本的には私がここに書いていることと同じだ。ただし、森岡が、「自然科学というのは、こういう種類の問題を脳裏から追い払うことで、なんとか成立している学問なのではないか」と述べているのは厳密には間違いである。自然科学は、そういう問題とは無関係に(という意味は、脳裏から追い払っても追い払わなくても)成立する体系なのである。

 科学は「人生の意味」を説明できない

 「人生」の根本問題に答えてくれないのは、しかし、科学だけではないのである。それは、森岡の文章の中の物理学や自然科学を株式市場や八百屋や野球に置き換えてみればわかる。
 「人生の意味とは何なのか。人生の目的とは何なのか。そういう『いのち』の問い、『人生』の根本問題に、株式市場はなにも答えてくれないのである」
 こういうことを真面目に書けば、常識ある市井の人からは、頭がおかしいんじゃないだろうか、と思われるに決まっている。科学はもともと、くり返し観察される何らかの共通現象しか説明できないのである。個々人の生きる意味といった個別的な点に関しては科学はまったく無力である。だからといって、それは科学のせいではない。株式市場が生きる意味を教えてくれないからといって、株式市場に文句を言う人はいない。
 科学だけが、ことさらに、科学は人生の意味を説明できないなどと言われるということは、多くの人々が心のどこかで、科学と同型の思考法をとっているためかも知れない。
 その思考法はおそらく、この世界はコントロール可能というものだ。科学はくり返す現象に対しては「事物の相対的に安定した仕組み」を見つけ出し、その限りにおいて予測を可能にするだろう。仕組みがわかって、それを人工的に操作することができれば、人間にとって都合の悪い予測は、場合によっては変更することができるだろう。
 現代の我々は、ほとんどそういう世界に住んでいる。予測不能な自然、わけのわからぬ自然は、なるべく生活から追い出して、わけのわかる内部でだけ生活しようとしている。都会とはそもそもそういう所であろう。電気やガスや水道が止まれば一大事である。電話一本かければ、すぐに修理の人がとんでくる。修理不能であれば、部品を換えればよい。ガスが永久に出なくなるなんてことは考えられもしない。そういう前提で住んでいるのである。
 しかし、自然現象の大半は、一回性のものであり、科学がコントロールできるものでも手におえるものでもないのだ。コントロール可能な世界にだけ住んでいると、時に人はそのことを忘れる。ふだん、それを忘れている人は、ある時自分の「心」と「体」がコントロールできないことを知って、あわてるのである。でも、自然のほとんどは、科学の説明の埒外にあるのである。
 科学は、なぜ「イヌ」という記号が、そこいらへんを歩き回っている小動物を指すのか説明できないし、なぜ人間が地球上に出現したのかを説明できないし、あなたの人生の意味も説明できないのである。それは、株式市場や民主主義が人生の意味を説明できないのと同じであって、それ以上のことでもそれ以下のことでもないのである。
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 そもそも、人生に客観的な意味なんてモノがあるのでしょうか。私の人生に、何らかの意味があると期待するのは、私自身なのです。だから、自分の人生の意味をどう考えるかは、あくまで主観的な価値判断でよいと思います。

 科学という知識体系は、客観性を重んじます。つまり、万人に共通な価値判断をしようとするのが科学なのかも知れません。でも、私の人生を万人に共通な物差しで評価し、「貴方の人生は五十点です」なんてことを、他人から言われても困るのです。
 他人から見て、私の人生に意味は無いのかも知れませんが、私にとって、私の人生には意味があるのですから…

 どちらにしても、科学は人生の意味を説明できません。なぜ宇宙に銀河があるのか、その銀河になぜ太陽系があるのか、その太陽系になぜ地球があるのか、なぜその地球に人類が誕生したのか、そいった疑問に科学は何も答えることができないのです。
 それら、人類共通の問題ですら答えることが出来ない科学が、一個人の人生の意味を説明できると期待するのが、そもそもの間違いなのだと思います。

(by 心如)

・・・

【おまけ】

◎質問の意図
 エリツィンが、大統領選挙の前にロシア正教の司教と会うことにになった。お茶を飲みながらエリツィンは司教に言った。
「次の選挙では、私に協力していただけるでしょうか」
 司教は言った。
「お答えする前に、ひとつ聞きたいことがあります。あなたはお酒をたしなまれますかな」
 エリツィンは答えた。
「お答えする前に、ひとつ聞きたいことがあります。それはご質問ですかな。それともお誘いですか?」

・・・
 


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figaro

「神が人間を創った」っていう、某宗教を思い出しました。
信仰も大切なものだと思いますが、進化して現在の人間がいる説も
色々と議論がありますが、事実だと思う。
どちらを信じても現代人が存在する事に変わりはないですね。
因みに、オカルト好きです(^^)v
by figaro (2011-12-09 00:13) 

心如

figaroさん、コメントを頂き有り難うございます
 神が人間を創ったというのは、誰かの作り話に過ぎないと思います。人間は、親から生まれるのであって、神様によって創られたのではないのですから…
 人間が、何か他の生き物から人間に進化したのは事実かも知れません。しかし、それも何百万年か前の話です。それを確かめる(再現する)ことも出来そうにありません。人類の起源とか、宇宙の起源なんて、わかったところで何の値打ちもないから、そんなことを気にするより、自分の人生を楽しむほうがよいのだろうと思います。
by 心如 (2011-12-09 19:10) 

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