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「過ちて改めざる是を過ちと謂う」かな… [エネルギー]

科学の目、科学のこころ (岩波新書)

科学の目、科学のこころ (岩波新書)

  • 作者: 長谷川 眞理子
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1999/07/19
  • メディア: 新書

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 コンコルドの誤り


 まだ乗ったことはないが、超音速機コンコルドはニューヨークやロンドンの空港でよく見かける。首を曲げたワシのような姿で、意外に小さいのが印象的だ。先日、これが空を飛んでいるところをロンドンの上空で見たが、なんとなく、おもちゃの紙飛行機かタコのようだった。このコンコルドは、イギリスとフランスの共同開発の産物だが、結局のところ採算が合わないことがわかっているので、もうこれ以上は製造されない。
 コンコルド開発にまつわるこのエピソードをもとに、行動生態学の分野で「コンコルドの誤り」として知られている考え方がある。いま、一羽の雄の鳥が、ある雌に求愛しているとしよう。これまでに雄は、ずいぶん長い時間を費やし、たくさん餌をプレゼントに持ってきたが、雌は一向に気に入ってくれない。雄は、このまま求愛を続けるべきか、やめるべきか? このような状況で、動物たちがどのように行動するよう進化してきたかを考えるとき、一昔前には、雄はもうこの雌に対して大量の投資をしてしまったので、いまさらやめると損失が非常に大きくなるから求愛をやめないだろう、という議論があった。ところが、これは理論的に誤りなのである。
 コンコルドは、開発の最中に、たとえそれができ上がったとしても採算の取れないしろものであることが判明してしまった。つまり、これ以上努力を続けて作り上げたとしても、しょせん、それは使いものにならない。ところが、英仏両政府は、これまでにすでに大量の投資をしてしまったのだから、いまさらやめるとそれが無駄になるという理屈で開発を続行した。その結果は、やはり、使いものにならないのである。使いものにならない以上、これまでの投資にかかわらず、そんなものはやめるべきだったのだ。
 このように、過去における投資の大きさこそが将来の行動を決めると考えることを、コンコルドの誤りと呼ぶ。求愛行動だけでなく、なわばりの確保や子育てなどのさまざまな状況において、どこでやめるべきかという「意志決定」が必要となるだろう。そのとき、過去にどれだけ投資をしたかに重点をおき、それを目安に将来の行動が決まるとするのは誤りなのである。さきほどの雄がむなしく求愛を続けている雌のとなりに、その雄はまだ一度も求愛していないが、求愛されれば十分に応える気のある雌がいたとしよう。もしそうならば、雄は、過去の投資の量にかかわらず、さっさとそちらの雌に乗り換えるだろう。将来の行動に関する意志決定は、過去の投資の大きさではなく、将来の見通しと現在のオプションによらねばならない。(こう書いても、雄の鳥がそのように意識して思考していることを意味してはいない。そのような行動に導く一連の生理的過程が進化してきたという意味であるので、念のため。)
 したがって、雄が相変らず求愛をやめないとしたら、それは、過去の投資の大きさのせいであると論じるのは誤りで、現在ほかにオプションがないのかもしれないと考えなければならない。コンコルドの誤りに陥ると、動物の行動の進化の道筋をたどるとき、大きな論理的誤りにはまってしまうのである。
 コンコルドの誤りは、人間の活動にしばしばみられる。元祖のコンコルドもそうだが、作戦自体が誤っているのに、これまでにその闘いで何人もの兵隊が死んだから、その死を無駄にすることはできないといって作戦を続行するのもその例である。過去に何人が犠牲になったかにかかわらず、将来性がないとわかった作戦はすぐにやめるべきである。
 考えてみると、私たち人間の思考は、しばしばコンコルドの誤りに陥りがちなのではないだろうか? 1996年6月に亡くなったトーマス・クーンが、すでに古典となった『科学革命の構造』の中で、科学者にとってパラダイムの転換がいかにむずかしいものであるかを指摘していた。旧パラダイムに慣れ親しんで研究してきた学者たちは、それがすでに誤りであるとこを示されても、なかなか旧パラダイムを捨てようとしない。それはまさに、現在の手持ちの仮説の中でどれが一番将来性のありそうな理論であるかという検討に基づくのではなく、これまで自分が大量の投資を行なってきた理論を捨てたくないという、コンコルドの誤りであるように思われる。
 大陸移動説を提出したウェーゲナーに対し、その当時のアメリカ地質学会の大物の一人は、「大陸が安易に動くなどという考えが許されるならば、われわれの過去数十年の研究はどうなるのか?」といって反対したというが、これなどは、過去の投資に固執する考えを如実に表した言葉と言えるだろう。
 ところで、コンコルドの誤りは、人間が動物の行動を解釈するときに犯す過ちであって、動物自体がコンコルドの誤りを犯しているのではない。コンコルドの誤りは誤りなのであって、誤りであるような行動は進化しないはずだからである。ではなぜ人間の思考はコンコルドの誤りを犯しがちなのだろうか? この誤りには、何か人間の思考形態に深くかかわるものがあるように思われる。
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金剛石.jpg

 過去にどれだけ投資をしたのかは、その物の価値と直接関係がないのです。長い時間と莫大な資金を注ぎ込んだからといって、必ずしも有用な物が出来るとは限らないという簡単な話なのです。

 でも、意外とこの簡単な話が理解できない人がいるのです。役人や御用学者たちは、役に立たない物に、長い時間と膨大な資金を注ぎ込んだことを認めると、自分の立場が悪くなるので認めたくないのだと思います。
 その典型が、動燃(動力炉・核燃料開発事業団)の発電用高速増殖炉原型炉〈もんじゅ〉(出力28万kW)なのです。〈もんじゅ〉は、1994年臨界にいたったが、1995年12月、試験運転中に冷却材のナトリウム漏れ事故を起こして、その後、15年以上も復旧と運転再開が出来ていないのです。
 また、1997年3月には東海事業所の再処理施設で爆発・火災が発生しました。いずれも事故後に、虚偽の報告をするなど隠ぺい工作を行ったため、科学技術庁は動燃改革検討委員会をつくり、動燃組織の見直しを進めた。その結果、新型転換炉〈ふげん〉は廃止、高速増殖炉や核燃料サイクルの開発は新法人核燃料サイクル開発機構に移行し、1998年9月30日に解団となった。しかし、原子力行政への不信はさらに高まった。
 この国民の不信を慰撫するために使われてきたのが、地球温暖化CO2主因説のでっち上げと、「原子力発電は、発電時に二酸化炭素を出さないクリーンなエネルギーです」という誤魔化しだったのです。
 たしかに、原発は発電時にあまり二酸化炭素を排出しません。でも、その代わりに、捨て場に困る核分裂生成物という厄介なゴミを出すのです。二酸化炭素は、生物にとっては必須の物質であり、これが無くなれば生物は死滅します。核分裂生成物は、生物にとって危険な放射線を放出する厄介なゴミです。使用済み核燃料の再処理がうまく出来ないので、未処理の使用済み核燃料がどんどん溜まっているのが、いま現在の日本の実情だと思います。また、再処理によって、核廃棄物という捨て場に困るゴミも出てきます。地中深く穴を掘って埋めてしまおうという話もあるようですが、最終処分地を引き受ける自治体は、いまの日本にはないと思います。

 その物に対して、過去にどれだけ長い時間と膨大な資金を費やしたのかと言うのは、その物が将来的に役に立つのかどうかと直接関係がないのです。将来的に見て役に立たないのであれば、研究開発を続けることは損失を増やすだけで、何のメリットも無いのです。

 原子力行政は、根本的に見直すべき時期にきているのではないかと、私は思います。

(by 心如)


タグ:原発 核燃料
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袋田の住職

ギャンブルで破綻するのも同じパターンですね。
やめる勇気、決断は大事です。
by 袋田の住職 (2012-01-25 01:20) 

心如

袋田の住職さん、コメントを頂き有り難うございます
 政治家や役人、御用学者など、国民の税金を使う立場の人たちは、自分の懐が痛まないからでしょうが、いい加減にしろと言いたい事例が多すぎます。
by 心如 (2012-01-25 18:32) 

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