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理想のリーダーどころか、リーダーの資質がないと思うが… [政治]

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http://diamond.jp/articles/-/19525
日本に“理想のリーダー”はなぜ現れないのか?
原発事故調査委での菅元首相に見る「失敗の本質」

 事故調査委で自分の責任を明言せず
 菅元首相に問う「リーダーとしての自覚」

 先週、東京電力福島第1原発事故を検証する国会事故調査委員会が、菅直人前首相を参考人招致した。参考人としての菅氏は、事故の責任は国にあると陳謝したものの、「全ての責任は、リーダーだった自分にある」とは決して言わなかった。

 むしろ、3時間近くに及んだ質疑では、自身の判断の正当性を強調することに終始した。つまり、同氏は“国”という組織が悪いのであって、リーダーである自分の判断は正しかったと言っているようなものだ。

 今回の調査委員会の質疑応答を見て、多くの国民は、「予想通り、典型的な日本型リーダーの失敗作だ」と思ったことだろう。残念だが、我々の眼に映った参考人が、当時のわが国のリーダーの偽らざる姿なのだ。

 リーダーたる人材が、そのような姿勢を示していたのでは、不測の事態が起きたとき、国という組織が迅速に、有効な対応策を実行できるだろうか。極めて疑問だ。

 リーダーとはいったい、どういう機能を果たすべき人物なのだろう。欧米のビジネススクールなどでは、「管理者と経営者=組織のリーダーとは大きく異なる」とよく言われる。一般的な定義として、特定部門の管理者とは、当該部署の部下を、組織のルールに従って業務の遂行に当たらせることが主な役割期待だ。

 一方、組織の経営者は、まず組織の目的を明確化する必要がある。それに基づいて組織全体が進むべき方向をわかり易く示し、組織内でコンセンサスをつくることが必要だ。

 さらに、全体の目的を部署ごとの目標に細分化し、それぞれの部署が目的を達成できるように環境整備をしなければならない。また、組織が長期的に上手く活動できるように、人材の育成も行なわなければならない。リーダーとは大変な仕事なのである。

 昔、中小企業の経営者と酒宴の席で気さくに話をしていたとき、彼は「太陽に背を向けて立つと影ができる。その影そのものが組織なんだ」とつぶやいた。

 彼が言わんとするところは、「組織のリーダーである経営者の生き方そのものが、組織の機能や活動を規定する」ということだろう。経営者が手を抜いたりすると、社員全体がそれに敏感に反応して、企業が持っている活力を十分に発揮できなくなるということだ。

 目的意識を共有することができるか?
 経営者の生き方自体が組織を規定

 それに似た話は、色々なところで聞く。元プロ野球選手がどこかのコラムの中で、「監督が焦っていると、その焦りが実際にプレイをする選手に伝染して、作戦が上手く行かないことが多い」と書いていた。だから、監督たるもの、選手1人1人の気持ちを考えながら、常に冷静沈着であることが求められるというのである。

 大企業でも中小企業でも、野球でもサッカーでも、人間が組織で何かをやろうとする場合、おそらく、同じようなことが言えるのではないだろうか。つまり、人間が組織として機能するためには、1人1人が同じ目的意識を共有することが必要だ。

 そのためには、組織の中心であるリーダーがしっかりした意思決定を行ない、それを組織の構成員全員と共有することが必要不可欠であろう。それができれば、1人1人の構成員が、それぞれの役割期待を実践できるようにする環境をつくればよい。

 リーダーにとってもう1つ重要なことは、それぞれの構成員の成果を公正に評価することだ。公正な評価に基づいて、組織の再編成や人員の育成を常に行なう。そうした努力を積み重ねることによって、組織はさらに強度を増すことができる。責任転嫁ばかりを考えているリーダーでは、そうしたリーダーとしての役割期待を果たすことは難しい。

 わが国のリーダー像については、昔から様々な議論がなされてきた。多くの議論は、「昔のリーダーは偉かった」、あるいは、「あの人は、リーダーとしての資質が欠けている」という類のものが多い。

 特に、「わが国のリーダーは、危険の及ばない後方にいて口先で指図をするばかり」という指摘を耳にする。

 部下に責任転嫁した旧日本軍幹部
 日本のリーダー像は“歯がゆさ”の表れ?

 そうした指摘が、わが国のすべてのリーダーに該当するわけではない。ただ、第二次世界大戦当時のわが国の大本営の例の様に、敵の弾丸の射程に入らないところで作戦を練り、命令を下したケースもあった。

 映画やテレビのドラマに出てくる旧日本軍の幹部の姿は頼りなく、何か不都合なことがあると、それを部下のせいにして責任転嫁する様子が多く描かれている。

 あるいは、ドラマで描かれる企業経営者についても、どちらかと言えば、責任転嫁型のリーダーが多いように思う。それは、リーダーに対する、国民の一般的な認識に根差したものかもしれない。政治のリーダーシップに対する“歯がゆさ”の感情の表れなのかもしれない。

 一方、欧米流のリーダーのコンセプトはやや違っている。昔、米国の組織で仕事をしたことがある。そのときのリーダー像はもっと鮮明だった。リーダーが決めたことに反対の構成員は、すぐに組織から出て行く。その代わり、リーダーの意見に賛同した構成員は、その方針に疑問を持つことなく前に向かって進む。あまり迷いはない。

 それでよい結果が出れば、リーダーをはじめ全員が果実を享受できる。結果が悪いと、リーダーは責任を取って組織を去る。責任と権限がかなり明確にリンクする、単純明快なルールがある。だからこそ、組織の構成員がそれなりに納得して、高いインセンティブを維持することができる。

 リーダーのあるべき姿に関しては、昔から様々な議論がある。また、実際の企業経営者の中にも、様々なスタイルの人がいる。名君の誉れ高い為政者にも、色々な人がいた。彼らは、それぞれの手法や方法論を用いて、有効に組織を運営することに成功した。つまり「こうすれば、理想のリーダーになれる」というものではないだろう。

 ただ、冷静に考えると、リーダーとして上手く組織を運営した人たちには、いくつかの共通点があるように思う。

 不変の哲学、責任と権限の明確化
 優秀なリーダーが持っていた共通点

 まず最初に、リーダーとして成功した人の多くは、独自のしっかりした考え方を持っていることだ。それは、頑固頑迷に他の人の言うことを聞かないということではない。むしろ、様々な専門家の意見を聞く耳を持っているケースは多いだろう。しかし、それで自分の基本にある考え方=一種の哲学が大きく変わることはない。

 周囲の環境の変化や、他の人の意見で自分の考え方が変わっていては、下の人たちがリーダーにどのようについて行ったらよいかわからなくなってしまう。それでは、組織を効率的に運営することが難しい。故スティーブ・ジョブズがアップルを再建することができたことには、同氏が自分の独創性を最後まで信じたことが大きく寄与している。

 もう1つ重要なポイントは、責任と権限の関係を明確に自覚することだ。それは、自分自身の身の振り方を規定すると同時に、部下に対する公正な評価にも大きな影響を与える。

 人間は誰でも評価を受けたい。そのため、公正さを欠く評価には大きな不満が発生し、組織全体の運営を危うくすることも考えられる。

 ある大手企業の経営者は、「しっかりした評価体系を作ることは、経営者の仕事の半分」と言っていた。モノ作りを出発点とし、他企業が事業部制を基礎とした複合企業を目指したことによって、最も大切な企業文化を失い、企業自身のアイデンティティを見失ってしまったケースもある。

 そうしたケースでは、経営者は率直に失敗に対する責任を取ることが必要だ。地位に連綿としていると、経営者の「影」である組織に伝染して、企業の存続を危うくする懸念もある。

 今回の原発事故に関する参考人が、そうした態度を取っているとすれば、それは国全体に伝染する可能性がある。リーダーたるもの、そうした自覚を持つべきだ。
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 菅直人氏は、東日本大震災さえなければ、外国人政治献金問題で総理を辞任するしかない状態にあったのです。そこに未曽有の災害が発生し、国難ともいうべき状況に陥り、いま政局を云々している場合ではないと普通の人は考えたと思います。
 その大災害の発生を、自分の地位の延命に利用するなんて人間としてはクズです。そんなどうしようもない人間と、理想のリーダー云々を同列に議論するなんてナンセンスだ! というのが、記事を読んだ私の率直な感想です。

(by 心如)

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タグ:政治
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コメント 2

noga

我が民族の長所については多くの識者がすでに語っている。
だから、私は自己慶賀はやらないことにする。

日本人の短所
意思がなくて恣意 (私意・我儘・身勝手 )がある。
個人主義がなく、意思決定に難渋して、問題が山積している。

成案がなくて腹案がある。
「お前らに、俺の腹の底が読めてたまるか」といったところか。

これらは、‘‘教育の問題’ と済ましていられない。
この問題を克服すれば、我々日本人は、さらに世界中から尊敬を集めることになる。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/




by noga (2012-06-07 06:49) 

心如

nogaさん、コメントを頂きありがとうございます
 赤ん坊は、日本で育てば日本人になります。アメリカで育てば、アメリカ人になるのです。生まれながらの日本人なんていないし、生まれながらのアメリカ人もいないのです。
 今の日本人が、江戸時代や明治時代の日本人と比べて、多くの問題を抱えているのも事実だと思います。その原因の大部分は、戦後の教育に大きな問題があるのも事実なのです。教育関係者は、その現実を直視する勇気を持たず、責任転嫁ばかりしているのも事実だと私は思います。
by 心如 (2012-06-07 19:39) 

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