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わかっていないことのほうが多い!? [科学]

地球について、まだわかっていないこと (BERET SCIENCE)

地球について、まだわかっていないこと (BERET SCIENCE)

  • 作者: 山賀 進
  • 出版社/メーカー: ベレ出版
  • 発売日: 2011/11/21
  • メディア: 単行本



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『地球について、まだわかっていないこと』(山賀進/ベレ出版)

 数学・物理学史上空前の天才であるあのニュートンも、「私は真理の大海原を前に、浜辺できれいな小石や貝殻を拾って遊んでいる子供に過ぎない」と言っています。
 できる人ほど、自分がどこまでわかっていて、逆に何がわかっていないか、そのわかっていないことの方が圧倒的に多いということを、よくわかっているということだと思います。(「はじめに」より)

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地震学会、お前もか!? [科学]

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http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20121017-OYT1T01054.htm
「予知」は誤解招く…地震学会が取り組み見直し

 東日本大震災を予測できなかった反省を踏まえ、日本地震学会は「地震予知」に対する取り組みの見直しなどを盛り込んだ行動計画案をまとめた。

 17日に北海道函館市で開かれた同学会で明らかにした。

 計画案では、地震予知について「現在の地震学では非常に困難」と指摘。同学会には、地震予知の考え方や課題を検討する「地震予知検討委員会」があるが、「『予知』という言葉を使うと、実用化につながる、と誤解を招く恐れがある」(学会長の加藤照之・東京大教授)として、同委員会の名称や活動内容を見直す。

 一方で、基礎研究は継続し、研究の現状を社会に丁寧に説明するとしている。

 また、南海トラフ巨大地震の被害想定など国の事業についても積極的に議論し、他学会との連携も強化。今後約1年間、学会で議論し、行動計画をまとめる。

(2012年10月17日20時18分  読売新聞)
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どんなに高性能な計算機を使っても… [科学]

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http://www.nikkei.com/article/DGXNASGG2300G_T20C12A2X90000/
「京」の100倍速…次世代スパコン、日本に遅れ
政策・技術とも課題山積 米欧中は開発推進
2012/2/25 12:00

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 医療や防災などの最先端研究分野で、引っ張りだこになっている理化学研究所などの世界最速スーパーコンピューター「京」。計算機開発や利用に携わる世界の研究者の間では、その「京」より100倍以上速い次世代の「エクサコンピューター」の実現に関心が集まっている。しかし、日本の取り組みは遅れており、政策面でも技術面でも課題は山積している。

 「京」の実行演算性能は10ペタ(ペタは1000兆)フロップス(1秒当たりの浮動小数点演算回数)で、「ペタコン」と呼ばれる。エクサはペタの1000倍に相当する「100京」を意味する。エクサコンは1秒間に100京フロップスという驚異的な計算性能を持ち、2018~20年ごろの完成が見込まれている。

 エクサコンに必要な部品は、例えばメモリーだけをとっても数エクサバイト。昨年全世界で出荷された全パソコン約3億台に搭載したメモリー数に匹敵する。高品質のメモリーをかき集めるだけでもひと苦労だ。演算処理装置、主記憶装置、配線、消費電力、故障対策など気の遠くなるような開発要素がある。

 「米欧と中国はエクサというキーワードを明確に掲げた国家レベルのプロジェクトを具体的に示し、開発にまい進している」というのは、スパコン「TSUBAME」を開発した松岡聡・東京工業大学教授。日本ではエクサレベルの計算機のあり方を議論する委員会やプロジェクトはあるが、「エクサという目標は意図的には掲げられていない」(松岡教授)。

 「京」は09年の政府行政刷新会議の事業仕分けで開発予算がいったん凍結。昨年11月の「国会版」事業仕分けでは、スパコン事業予算の縮減が言い渡されるなど、国策としてスパコンをもり立てる機運がまるでない。だから関係者はエクサコンの開発に及び腰になっている。

 一方で米欧中は、国や地域の覇権を握るための最重要技術としてエクサコンを位置づけており、軍事関連を含めた複数の開発計画が走る。「京」は今年6月には米国製のペタコンに世界最速の座を譲ると見られており、このままだと日本はずっと外国の後じんを拝することになりそうだ。

 技術面でもブレークスルーが必要だ。例えば日本が得意とする気候分野のシミュレーション(模擬実験)。大気中の二酸化炭素濃度は増加の一途をたどっており、温室効果に起因する気温上昇が予測されていた。しかし21世紀に入ってから、気温はほぼ横ばいだ。予測はほとんど外れているといえる。

 シミュレーションがうまくいかない原因のひとつは、気候システムの理解が進んでいないこと。榎本浩之・国立極地研究所北極観測センター長は「特に極地には固有の物理メカニズムがある。それを方程式にしなければ、どんなに速いスパコンを使っても予測精度の向上は望めない」と言い切る。

 詳細なシミュレーションを目指すと、計算量が爆発的に増大するだけでなく、計算に組み込む要素も今のままでは不十分だ。高橋桂子・海洋研究開発機構プログラムディレクターは「風や雲、放射などのモデルをもっと精度の高い方程式に変えなければならない」と指摘する。

 東日本大震災以降、大地震や大津波の予測が期待されているが、実は気象分野よりさらに遅れている。古村孝志・東京大学地震研究所教授は「得られるデータ量が気象に比べて圧倒的に少ない。力仕事で計算しながら、よりよいモデルを試行錯誤で探している段階」と打ち明ける。

 このようにエクサコンを作り上げるにも使いこなすにも、難関が待ち受けている。研究資源の投入量は半端ではすまない。世界に伍して開発を進めるとすれば、その意義を国民に説明する必要がある。(池辺豊)

[日経産業新聞2012年2月24日付]
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顕微鏡の父、レーウェンフック [科学]

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http://www.nikkei.com/life/column/article/g=96958A90889DE1EAE6E2EAE0E4E2E1E2E2E3E0E2E3E0E2E2E2E2E2E2;p=9694E1E2E2E3E0E2E3E0E4E0E2E7
オタク少年、「ミクロの世界」に出会う
分子生物学者 福岡伸一
2012/2/7 7:00

 生物学者になる前の私は、虫が大好きな昆虫少年だった。黒地に青と緑の輝点を散らしたカラスアゲハや、優美な曲線を描く長い触角をもつルリボシカミキリを野山に追っていた。
 やがて私は、葉の裏に産みつけられた蝶(ちょう)の卵や、翅(はね)の鱗粉(りんぷん)、甲虫の表面などを顕微鏡で観察することの鋭い驚きを知った。
 小学生になって私が買ってもらったのは、おもちゃに等しい子供用の顕微鏡だった。それでも100倍程度の倍率があり、覗(のぞ)くとまったくの別世界が広がっていた。
 焦点の当たっている場所は、微小な粒や棘(とげ)がくっきりと見える。しかしあまり精度の高くないレンズの作用で、その輪郭にはうっすらと青や黄色の不思議な色がつく。焦点からはずれた場所は、ゆがんだ光の滲みとしてぼんやりとしか見えない。しかし、むしろそのようなレンズの視覚効果が、より深淵な何かを映し出しているような気がした。

■顕微鏡の父、レーウェンフック

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 私はオタク少年だった。オタク少年の常として、何かを見るとその源流をたどらずにはいられなくなる。顕微鏡を最初に作り出したのは一体どんな人物だったのだろうか。
 こうして私は、アントニ・フォン・レーウェンフックに出会った。
 私が初めてレーウェンフックの人となりを知ったのは、図書館で見つけたポール・ド・クライフ著『微生物の狩人』という読み物からだった。たぶん中学生になったころのことだろう。
 翻訳文が読みにくいながら、肉眼で見えない病原体を追究した人々の列伝は十二分に私を興奮させた。その中の一章に、レーウェンフックが割かれていた。
 彼は顕微鏡を自分で作り、つかれたように観察を行った。その顕微鏡は、現在の顕微鏡とは似ても似つかない、金属製の靴べらに細かなネジがつけられたような形をしていた。靴べらにはガラス球の単レンズがはまっていただけだった。
 しかしその原始的な顕微鏡は、驚くなかれ300倍近い倍率を実現していた。これは今、私たち研究者が使っている光学顕微鏡に匹敵する。レーウェンフックは、レンズ磨きに秘技を持っていたのだ。
 顕微鏡の観察を通して、水たまりの中に微生物がキラキラと泳ぎ回っていることを見つけた。動植物の組織が小さな区画=細胞からできていることを知った。生きたままオタマジャクシの尾を観察し、血液の流れの中に粒があることに気づいた。あげくに精液まで見て精子を発見した。
 彼は限りないミクロの小宇宙の扉を開いたのだ。

■アマチュアとは「何かをずっと好きであり続ける人」

 レーウェンフックは17世紀、オランダの人。日本はまだ江戸時代が始まったばかりだった。彼は正規の教育を受けた科学者ではなかった。織物商の家に生まれ、織物商人として育った。
 彼は言葉の純粋な意味でアマチュアだった。アマトール=何かを愛する人。何かをずっと好きであり続けた人。そのことが昆虫少年だった私の心に響いた。
 顕微鏡を手作りしたレーウェンフック。アマチュア・サイエンティスト。レーウェンフックとの出会いが、私を17世紀の豊かな時代にいざなった。科学と芸術が自由に往還していた時。そこで私は、光の天才画家ヨハネス・フェルメールと出会うことになる。

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福岡伸一(ふくおか・しんいち) 1959年東京生まれ。87年、京都大学大学院博士課程修了。米ハーバード大学医学部フェロー、京都大学助教授などを経て04年より青山学院大学教授。主な著書に『生物と無生物のあいだ』『動的平衡』『フェルメール 光の王国』。近著に『動的平衡2』。「生命とは何か」をわかりやすく解説し、人気を博す。最新のデジタル印刷技術によって複製したフェルメール全作品を展示する「フェルメール・センター銀座」の監修および館長も務める。
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科学と宗教の違いは? [科学]

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 科学教の信者になっていませんか?


 世の中には、科学的に正しいかどうかということが最も重要だと考える人がいます。価値判断の基準が科学的な正しさなのです。そういう方は、宗教や道徳的な価値判断を馬鹿にする傾向が強いのも困ったものです。
 私に言わせれば、宗教(神様)を崇拝しようが、科学を崇拝しようが、それ自体は本人の自由なのです。でも、その考え方を、私に押し付けないで下さいとなります…^^;

 科学と宗教は違うと、科学教の信者は信じています。でも、科学と宗教は、人間の営為の一部であるという点において、大した違いはないのです。

 俗世間で普通に暮らしていると、何かをするときに科学的に正しいかどうかなんて一々考えません。同様に、宗教的に許されるかどうかも余り考えないと思います。
 朝、顔を洗うとか、食事の後で歯を磨く人は多いと思います。こういう日常の行為を、一々科学的に正しいかどうかで判断するでしょうか? それとも宗教上の戒律に従って行うのでしょうか? 普通の人は、子どものころに親の躾によって、そうするのが習慣になっているだけの話だと思います。つまり、世間の常識に従っているだけの場合が多いのです。

 もちろん、日本には日本人だけで通用する世間の常識がありますし、アメリカにはアメリカ人だけに通用する世間の常識があるかも知れません。「郷に入っては郷に従え(人は住んでいる土地の風俗・習慣に従うのが処世の法である)」と、昔から言われているのは、ご存じの方が多いと思います。

 科学や宗教は、人間の風俗・習慣(営為)のごく一部でしかないのです。その一部に過ぎないものを崇拝し、他の風俗・習慣を馬鹿にするのは、科学教信者の悪い癖です。

 科学とは、「体系的であり、経験的に実証可能な知識」のことです。体系的(組織的。統一的。システマチック)な知識という点においては、宗教と科学はあまり違いがありません。科学と宗教の大きな違いは、経験的に実証可能かどうかという点にあるのです。
 神様が存在するかどうかは、経験的に証明することは不可能です。教祖が、神の啓示を受けたと主張し、他の信者にはそれがない場合、だからこそ教祖は偉いのだ。貴方も信仰をもっと深めなさいと言われてしまえばそれまでです。

 科学の場合、ある科学理論が正しいかどうかは、観測された事実に適合するかどうかで判断します。観測された事実ともっともよく適合する理論が一番真実に近いという評価を受けるのです。科学は、客観性と再現性という面を重視するので、宗教とは考え方が違うというのは事実です。
 ところが、観測技術が未発達な時代に、どんなに正しいと思われた科学理論も、観測技術が発達し、精密な観測データが得られるようになると、間違っていたという話になることは沢山あるのです。科学とは、いま現在の知見で判断すると、こう考えるのが一番妥当だというだけのモノなのです。そういう事実を見ると、「所詮、科学なんて解ったつもりの錯覚にすぎない」という考え方もあるのです。

 その典型が、天動説と地動説です。「朝、東から太陽が昇り、夕方、西に太陽が沈む」、これは世間の常識です。肉眼という観測手段しか持たない時代の人類から見れば、天動説は観測される事実にもっとも適合する理論だったのです。
 ところが、望遠鏡が発明され、月や惑星の動きを詳しく観測し、遠くの星の位置を詳しく調べていくうちに、地球は自転しながら太陽の周りを公転していると考えるのがもっとも妥当だということになりました。望遠鏡という観測技術の発達が、より精密な観測データを提供し、科学を進歩させたというわけです。
 これと似たようなことは、顕微鏡についても言えると思います。観測技術の進歩が、新たな観測データをもたらして、科学を進歩させてきたのです。

 では、いま現在の人類が、この宇宙のことをどこまで知悉しているのでしょうか?

 よく分らないと言うのが一番正直な答えではないかと私は思います。

 いま現在、どんなことがどこまでわかっているのかすら把握できません。あまりに膨大な観測データと、それをもとに提案された膨大な仮説があるのです。そのすべてを一人で把握できる人間はこの世にはいないと思います。
 そして、次々と新しい観測方法が発明され、既存の観測技術が改良され続けているのです。それらを使って、新たにどんな観測データが得られるか、そのすべてを予測するのは不可能なのです。

 科学と技術が進歩したら、今まで解らなかったことが解るようになると期待するのは当然だろうと思います。でも、それは、いま現在の科学ではまだよく解らないことが沢山あるし、天動説のように、その時点で、誰が考えても正しいと思われていることが、新たな観測手段が与えられたら、実は正しくなかったという場合があることを意味します。
 いま現在の人間から見ると迷信でしかないものも、その時点で観測された事実に基づいて考えると妥当だったのです。それが、科学という知識体系の本質ではないかと思います。

 科学的な正しさを唯一絶対の価値判断だと考える科学の崇拝者は、科学のこのような本質を知らない(あるいは忘れている)のだろうと思います。

 普通に社会で暮らしている人間にとっては、科学的に正しいかどうかとか、宗教上の戒律にあっているかどうかよりも、世間の常識(風俗・習慣)のほうが大切なのではないかと思います。

 そして一番大切なのは、「人間には間違ったことを言う自由がある」ということです。

 他人の意見を、いま現在の科学的な知識で判断すると間違っているという理由で非難し、発言を封じる権利は誰にもないのです。

 大陸移動説を提出したウェーゲナーに対し、その当時のアメリカ地質学会の大物の一人は、「大陸が安易に動くなどという考えが許されるならば、われわれの過去数十年の研究はどうなるのか?」といって反対したそうです。しかし、いま現在、プレートテクトニクスは科学的に正しいとされているのです。

 科学的な正しさなんて、それほど当てになるものではないのです。古い知識で考えると間違っていると思うことでも、新しい知識で考えると妥当だと考えることが科学の進歩なのです。そのためには、一見間違ったことでも発言する自由が必要なのです。

 科学教の信者は、自分の科学的な知識が絶対であり、他人の発言をよく吟味しないで、それは間違っていると決め付ける場合が多々あります(自分にもそういう傾向がないとは言えませんが…)。言論の自由がなければ、科学の進歩もあり得ませんから、お互いに気を付けたいものです。

 科学教の信者も、宗教の信者も、共産主義者、自由主義者、etc.、みんな自分の教義(信じていること)に反する意見には耳を貸さないという傾向が何故か共通しているのです。これは、何を信じていようが、人間本来の特性なのかも知れません。
 これを、『バカの壁』と称した人もいたような…

(by 心如)


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