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shiraさん、コメント有り難うございます [科学]

過去記事、『進学率が上がり、知力が低下した…!?』に対し、
shiraさんから長文のコメントを頂戴しました。

お返事を短くまとめるのが困難なので、今回は別記事とさせて頂きました。


shira>全文を読んだわけじゃないので断言はできないのですが、池田清彦という人は教育問題についての考察がイマイチのように思われます。

 池田清彦氏は、教育者(大学教授)としてはどちらかというとへそ曲がりの部類でしょうか?
 本のタイトル自体も『やぶにらみ科学論』としているように、『科学』にまつわる話題を書いたもので、教育問題を中心にした本ではありません。
 最近の大学生は専門書の一冊も(指導教授の書いた本すら)読まないし、勉強しようという意気込みがあまり感じられない、というぼやきなのです。教育問題についての考察というよりも、「バカな学生の面倒を見るのは疲れる」という愚痴だと考えるほうが妥当だと思います。
 そういう意味で、教育問題についての考察と言えるレベルではないというのは、ご指摘のとおりと思います。


shira>まず、「大学の定員が18歳人口の一割であったなら、こんなにすさまじい勢いで若者のバカ化が進むことはなかったろう。」ですが、定員が大きいからいけない=定員は小さい方が良い、とは断言できません。大学の定員が本当に18歳人口の10%だったら、アナタ自分の子どもをその競争に参加させようと思いますか?小学校高学年の時点でさっさとあきらめる人が大量に発生するんじゃないでしょうか。

 池田清彦氏は、本来の大学レベルの高等教育を理解できる人は、一割程度しかいないという考えの人です。だから、本当に高等教育を理解できる人だけが大学に進学するべきだという意味で、「大学の定員が18歳人口の一割であったなら…」と述べているのです。
 小学生の高学年の時点で、大学進学をさっさとあきらめる人が大量に発生することは、大学の知的水準にとって、むしろ望ましいと考えている方です。よって、池田清彦氏から見れば、不都合は何もない話だと思います。
 しかし、定員を減らしても、必ずしも知的能力が優れたものだけが大学に行くとは限りません。本人の能力や努力とは無関係に、親の資金力が大きい程、大学に進学できるという社会では困ります。


shira>それと、「左翼はある意味で大勝利を収めたのである。」というのも皮肉ではあるのでしょうけど、「どちらかというと進歩的な左翼系の人々が唱導していたと思う」という程度の理由でここまで言うのは言い過ぎでしょう。
 15の春を泣かせるな、というのは、元来は政治的経済的都合で(親が貧乏とか、学校の新設はゼニのムダだからやらないとか)教育を受ける機会を奪うな、というのが狙いであるはずです。この著者はスローガンの字句しか見ていません。

 「能力がなくても高等教育を受ける権利があると、社会も学生も思い込んだのは、このあたりからであろうか。」という言葉が続いています。池田清彦氏は能力に応じた教育をすべきだという考えの方です。
 例えば、運動する機会を奪うなと言って、走るのが苦手な人もマラソンに参加させるとしたら、馬鹿げていると思います。苦痛だけで済めばよいのです。体調によっては、生命の危険すら伴います。知的能力を備えた人から、教育を受ける機会を奪うのはいけない、というのはそのとおりです。しかし、知的能力がない人に、高等教育を理解しろと強要するのは間違っている。という考えなのです。


shira>そもそも高校は「中等教育」です。「高等教育」とは大学以降の教育を指します。

 ちゅうがっこう【中学校】 ①小学校の教育を基礎として中等普通教育を施す学校。修業年限3年で小学校の6年とともに義務教育。 ②旧制で、高等普通教育を授けた修業年限5年(第二次大戦末期は4年)の男子中等学校。

 こうとうがっこう【高等学校】 ①中学校教育の基礎の上に高等普通教育および専門教育を施すことを目的とする学校。1948年発足。修業年限は3年、ただし定時制および通信制の課程では4年以上。高校。 ②旧制では、程度の高い高等普通教育を施した男子の学校。修業年限は3年。1894年(明治27)高等中学校を改組したもので、当初は第一高等学校(一高)以下5校を設けた。実質上は帝国大学の予備教育段階。旧制高校。

 だいがく【大学】 ①大学寮の略。源氏物語(少女)「―の道にしばし習はさむの本意(ほい)侍るにより」 ②(university)学術の研究および教育の最高機関。一般に中世ヨーロッパの大学を起源とし、初めボローニャ大学などのように教師や学生のギルド的団体として発生し、近代国家の発達とともに19世紀以後今日のような形態となった。日本の今日の大学は、明治以後欧米の大学を模範として設立されたもの。その後、1886年(明治19)の帝国大学令、1918年(大正7)の大学令などによって規定され、第二次大戦後は学制改革により学校教育法に基づいて設置され今日に至る。大学には学部のほか大学院を置くことができ、学部の修業年限は4年を原則とするが、ほかに2年または3年の短期大学もある。(書名別項)
(広辞苑 第五版)

 本来の意味で言えば、中学校が中等普通教育を施す学校で、高等学校(高校)は高等普通教育や専門教育を施す学校だったはずです。大学は、学術研究および教育の最高機関という位置づけのようです。
 しかし、ご指摘のように、昨今の高校では「中等教育」を施し、高等教育は大学以降でないと受けられないのが実態だと思います。これこそ正に、池田清彦氏のいう、大学の高校化、高校の中学化、という知的レベル低下の事例だと言えるのではないかと思います。名称と中身が一致していないことを問題にしているようです。


shira>日本社会の構造が決定的に変化させたのは、明治維新でも終戦でもなく、高度経済成長です。これ以降、日本中が「親の仕事を継ぐのは(医者や政治家でもない限り)危険な行為である」という状況に突入し、「進路選択」というものが初めて必要になりました。日本中の親が、もはや「お前は俺の跡を継いばいい」と自信を持って言えなくなってしまったのです。
 しかし親たちには進路選択のノウハウはない。そんな親たちをバックアップしたのが学校です。学校の先生は少なくとも農家や大工の棟梁や商店主よりは進路選択のノウハウを持っていた。だから学校は死活的に大切な機関であったのです。当然、小学校よりは中学、中学よりは高校の方が進路選択への期待は大きかった。だから「15の春」には本当に重い意味があったのです。

 高度経済成長時代は、私が卒業した高等専門学校でさえ、学生一人当たり十社を超える求人が大手企業から学校に来ていました。人手不足・求人難の時代に、学校が進路選択の場として機能していたのは事実です。しかし、そのことが、学校の先生は進路選択のノウハウを持っていたという話の根拠にはなり得ません。単に好景気だったから、学校を出さえすれば、いくらでも就職先があったというだけの話だったかも知れないのです。
 長引く不景気で、社会に荒波が逆巻いています。「就職先がないから留年を選択する」という話すら聞きます。学生に対して、どんな進路選択をアドバイスできるか? 逆境のときこそ、その真価が問われるのではないかと思います。

 どちらにしても、池田清彦氏の言われた、知的能力平等原理主義は科学的にみると可笑しい。という話を否定するには、誰でも努力さえすれば大学レベルの高等教育を理解できるという証拠が必要です。しかし、小学校の学級崩壊に近い事が、現実の大学の講義室で起きているという話を聞くと、池田氏の言うことももっともな部分があるなと思わざるを得ませんが…

(by 小父蔵)


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 ▲下関市立商業高等学校裏手の土手で撮影。古い木ですが、今年も沢山花を開きました

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 ▲名前は知りませんが、桜の木に沢山集まっています。

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 ▲パトカーも警邏を兼ねて花見でしょうか…

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 ▲自生の菜の花でしょうか? 生命力を感じます。

 
  

やぶにらみ科学論 (ちくま新書)

やぶにらみ科学論 (ちくま新書)

  • 作者: 池田 清彦
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2003/11
  • メディア: 新書


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shira

 わざわざ一記事にしていただいて恐縮です。お仕事を増やしてしまったようですみません。おかげさまで疑念がかなり解けました。
 私も一応教育現場の人間ですので、教育論に敏感に反応し過ぎるキライがあっていけませんね。
 ただ、教育に限らず、高度経済成長以前とそれ以降で日本社会はかなり違うものになっているという切り口は、日本社会を分析する上ではかなり有効だと私は思っています。高度経済成長以前は学校は「一部の行きたい人が行けばいい場所」「親としてはあまり子どもをやりたくない場所(家業の手伝いが疎かになる)」だったが、高度成長以降は「行きたくなくても行かなければならない場所」「本人が嫌がっていても親は行かせようとする場所」になりました。工業化した社会ではそうしないと食っていけないからです。
 あ、ここから先は自分で記事にしないといけませんね。
 
by shira (2010-03-29 23:38) 

小父蔵

shiraさん  コメント 有り難うございます
 高度経済成長が終り、グローバル化によって、工業生産が海外にシフトしている現状をみると、いま現在の日本には、もう一つ次の教育政策が必要になっていると思います。
 大学の三回生から就職活動が忙しくて、落ち着いて勉強が手に付かないような大学で、世界に通用するような人材を如何に育成するのか? 大学経営よりも、国家経営の見地から見直すべき時に来ていると言いたいのですが…
by 小父蔵 (2010-03-29 23:53) 

大将

どうも教育と言うことを考えた時に
今と昔を考えざる終えないのかもしれませんね
なんだか自分の時代には先生と呼ばれる人のほかに
親もそして近所のオジさんやオバさんなんかも教育者でした
と言っても教科書を開いての勉強と言うよりも
常識を教え込まれましたね。。。言葉とゲンコツで!
今のお仕事は年齢に関係なく広い年代を相手にしますが
年齢に関係なく常識と言う部分が欠落している方々が増えているのは事実
教育者がサラリーマン化したからなのか?
あるいは親が子供に無関心だからなのか?
核家族が増えたからなのか?
近所付き合いが減ったからなのか?
それともそれらが合わさり今の時代を作っているのかなぁ。。。
by 大将 (2010-03-31 00:04) 

小父蔵

大将さん  コメント 有り難うございます
 学問よりも大切な教育があると私も思います。愛情があれば、拳骨なんて当然です^^; 戦後の教育に欠けているのは、日本人としての誇りを持てないことではないかと思いますが… 国旗・国歌に反発するような教師がいること自体が不思議でなりません。
by 小父蔵 (2010-04-01 00:58) 

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