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今度は教会のチラシが入ってた [雑感]

 郵便受けに、こんどは教会のチラシが入ってました。

あなたも教会へ
 いらっしゃいませんか

教会とはどんなところでしょうか?



 楽しい賛美とわかりやすい聖書からのお話があります。聖書は備えつけられています。おいでになるために必要なものは何もありません。もちろん、各集会とも無料です。
 赤ちゃんからお年寄りまで、あらゆる年齢層の方々が集まって来られるところです。ナースリー、送迎車もありますので、どなたでも安心して来ることができます。

教会はあなたをお待ちしています!

 聖書は永遠のベストセラーです。神様の言葉である聖書には、私たちの人生の目標や日常生活の知恵がいっぱいつまっています。ぜひ、神様からあなたへの愛のメッセージを聞いてみて下さい。
 「自分はクリスチャンではないから・・・」というお心遣いは不要です。安心してお越し下さい。

集会のご案内
毎日曜日 午前10:00 バイブルキッズクラブ(幼稚園~小学生)
           英会話クラス
       11:00 朝  拝
     午後 4:00 夕  拝
毎水曜日 午後 7:30 聖書研究会と祈り会
毎土曜日 午後 2:00 バイブルジョイタイム(幼稚園~小学校)
※その他、個人的聖書の学びは、相談に応じ、随時致します。(無料)

みらいバプテスト教会
 牧 師:神 庭 夏 樹(Natsuki Kamba)
<教 会>〒750-0003下関市阿弥陀寺町14-2
     Tel/Fax(0832)31-8494
<牧師宅>〒572-0936下関市長府松小田南町○○-○○
     Tel/Fax(0832)○○-○○○○
     E-mail miraibc@ybb.ne.jp
※私たちの教会は聖書を正しく学ぶ教会です。エホバの証人・モルモン教・統一教会その他の新興宗教のことで、ご相談のある方はご連絡ください。
(以上、1枚目)

五千人の給食 ~五つのパンと二匹の魚~

 聖書の中には、イエス・キリストの生涯について書かれた四つの福音書と呼ばれる書物があります。福音書の中には、さまざまな奇跡について書かれていますが、全ての福音書に共通しているものは、イエスの復活を別にすれば、この「五千人の給食」と呼ばれる奇蹟だけです。そのことからも、この奇蹟の持つ意味が大きなものであることが伺えます。聖書のヨハネの福音書の記事に注目してみましょう。

Ⅰ.打算的・現実的な人の弱さ
『イエスは目を上げて、大勢の人の群れがご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」もっとも、イエスはピリポをためしてこう言われたのであった。イエスはご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。』
 一般にこの奇蹟は「五千人の給食」と呼ばれていますが、女性や子供たちの数を加えると、実際の数は一万人ほどいたと言われています。現実的に考えれば、全員が食事にあずかることは不可能に思えます。
しかし、神に不可能なことはありえません。イエスはご自分がしようとしていることを知っておられましたが、あえてピリポ(弟子の一人)を試すために尋ねられたのです。ピリポは次のように答えました。『めいめいが少しずつ取るにしても、200デナリ(200デナリは200日分の給料に相当する)のパンでは足りません。』(ヨハネの福音書6章7節)
 ピリポという人は極めて打算的・現実的な人でした。すぐに頭の中でそろばんを弾き、答えを出しました。それは「とても無理です。」という答えでした。私たちもいつも同じことをしているのではないでしょうか?私たちは何か物事に臨む時にマイナスの要素を見つけることは得意ですが、プラスの要素を見つけることは苦手です。だから、「そんなことはできるはずがない。」「あれがない、これがない。」と、いつもつぶやき、あきらめてしまっているのです。

Ⅱ.発想の転換の大切さ
『ここに少年が大麦のパンを五つと小さな魚を二匹持っています。』(ヨハネの福音書6章9節)
 次にアンデレという弟子がやって来てこのように言いました。アンデレも「わずかなものしかありません。」という思いを持っていたことは同じでしたが、「先生なら何とかして下さるはずだ。」と、イエスに望みを置いて可能性を提供しました。アンデレは小さな信仰で、少年の持つわずかなものをイエスのところに持っていきました。しばしば教会のシンボルとしてもあらわされる五つのパンと二匹の魚は、実は少年のお弁当だったのです。
 それでも、人間的に考えればあまりにもわずかなものです。しかし、イエスはこの小さな信仰を喜ばれ、そのわずかなものを通して大きな奇蹟を成されました。そのように、私たちの持っているものがたとえわずかであったとしても、その欠けている部分や足りない部分は、神が必要を満たして下さいます。そのことを知っている人は幸いです。
 私たちにとって大切なことは、目に見える環境や問題、自分自身の限界に捕らわれてしまうのではなく、発想を転換して必要を満たして下さる神に信頼することです。そうすることで、私たちはマイナスをプラスに変えていく積極的で肯定的な考え方を生み出す力が与えられるようになるのです。真の発想の転換とは、真の信仰によってもたらされるものです。

Ⅲ.創造者なる神との出会い
『そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。』(ヨハネの福音書6章11~13節)
 創造者であるキリストは、無から有を生み出すことのできるお方です。五つのパンと二匹の魚は神の御手の力によって無限の祝福をもたらすものへと変えられました。同じように神は私たちの持ち味(個性・才能・長所 etc)を誰よりも知っておられるお方ですから、私たち自身を最大限に生かすことのできるお方なのです。
 こういうお話があります。ある教会に立派なパイプオルガンがありました。そのパイプオルガンの音色は多くの人々の心に響くすばらしいものでした。ある時、一人の小さな老人が教会にやって来ました。その老人は「パイプオルガンを弾かせて下さい。」と頼みました。教会の牧師はためらいました。「この大切なパイプオルガンを見ず知らずの老人などに、弾かせてもいいものか?」と。しかし、老人がしきりに頼むのでしぶしぶ了解しました。その老人がパイプオルガンを弾いた時に、驚くべきことが起こりました。その老人は今までに聞いたことのない美しい音色を奏でたのです。牧師はとても驚いて、「あなたは誰ですか?」と尋ねました。すると老人は「私はこのパイプオルガンを作った者です。」と答えたそうです。
 同じように、創造者なる神は私たちという素材の持つ力を最大限に引き出すことのできるお方なのです。
 ~教会はその創造者なる神と出会う場所です。あなたのご来会をこころよりお待ちしています。~

<発行> みらいバプテスト教会 Tel/Fax(0832)45-4932
(以上、2枚目)

 五千人の給食~五つのパンと二匹の魚~は、あまりにも有名な伝説であり、知っている人も多いかもしれない。実際に起こったら、紛れもない奇蹟であろう。これが実際にあった事と信じる人がいるとしたら、それもある意味で奇蹟と言えますが…。
 奇蹟と言う言葉の意味は、常識では考えられない神秘的な出来事。既知の自然法則を超越した不思議な現象で、宗教的真理の徴と見なされるもの。と、広辞苑に記述されています。

 神を名乗ったり、神を創り出した人は、過去の歴史に五万といます。しかし、神によって創造された人間は、誰一人としていません。すべての人間は、例え人工授精であっても、母親のお腹に宿して、出産によって生れています。
神に不可能なことはありえません」よく聞くところの全能の神という意味でしょうか?もし仮に神が全能であったとしたら、創造者なる神が創りたもうた、この人間という存在の不完全さは、何を意味するのか説明できません。もしかして、神は人間を創るときだけ、手抜きをしたのでしょうか?その疑問に対する説明をしてもらえるかどうか、一度、メールでもしてみますか・・・

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yokonozo

わたしの家(実家)はキリスト教です。
だから日曜日は、教会です。
そこでこの話をきかされたとき、ツッコミを入れた幼き日の私です。
「なんで?ねえ、なんで???」
でも、誰も答えてくれませんでした。
「神がそうされたから」
って、答えじゃねえよばっきゃろー、とか思ったりしまして。
神は全く不要とは思いません。でも、麻薬も過ぎれば毒です。
すべての答えを神に依拠し、思考停止に陥るための存在ではありません。
そんなことを考えていたので、敬虔なクリスチャンではないのでしょう。
by yokonozo (2006-10-31 13:09) 

心如

yokozonoさん nice・コメント 有難うございます。
 霊魂や死後の世界なんてものを信じるのかどうか?
   ましてや神の存在なんて言わずもがなですが…。
人知のおよばない、宇宙や大自然の法則があり、それを、神や仏として信仰するのは、悪いことではないと思います。しかし、神の名を利用して、おカネ儲けをしている宗教を、尊重する必要があるとは思えません。

「創造者であるキリストは、無から有を生み出すことのできるお方です。」こんな事を、本気で信じているなら、信者に寄付を求めないで、必要なものは神に頼んで出してもらえば良いのです。神が、その願を聞き入れないとしたら、神は教会を必要と認めておられないのでは…。なんてね。
by 心如 (2006-10-31 16:13) 

モルギフ

niceありがとうございました。
古い記事にあえてコメントをつけることをお許しください。
 
私のブログにいらしていただけたのならおわかりのことと思いますが、
私はカトリック教会に通っており、信者です。
そんな私も聖書の教えにしたがっているかと問われれば、Noと答えざるをえません。
『右の頬を叩かれたら、左の頬をさしだせ』とは比較的有名な言葉ですが、私の場合『右の頬を叩かれたら、倍返しの上、とび蹴りかまして地獄巡り』となってしまいます(笑)。
私たちが神様に何を求めているのか、それは私もまだわかりません。なにしろ人生経験浅いです。
ただ『神様』という存在は信じています。
それは神様にお願いばかりして、自分で何もしないというわけではなく、いざというときの心の支えであると考えています。
悪いことをしてしまったときは神様に二度としないと誓いをたてる、何かラッキーなことがあったら神様にお礼を言う。
これが正しいか間違ってるかとか、そういうことすら全くわからないのですが・・・。
いろいろ考えながら、考え続けて生きていくんでしょうね。
 
若輩者の戯言です、どうぞお聞き流しください。
by モルギフ (2007-06-05 20:47) 

心如

モルギフさん コメント 有り難うございます
 そうですか
 『神様』を信じるのは信仰ですから、他人がとやかくいう必要はないと思います
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/natton302/view/20070606/1181133553
 ただ、神の名を語るペテン師が多いことも事実だということを忘れない方がよいと思いますが…
by 心如 (2007-06-06 23:48) 

心如

すぅ~ちんさん nice・コメント 有り難うございます
by 心如 (2007-09-27 01:47) 

123

ぼやいてないで、聞きたいことがあるならメールをするか、またはいきなり教会に行ってみるとか。突っ込んだらどうでしょ!
by 123 (2008-03-04 15:11) 

小父蔵

>123
もちろん、メールをしました

しかし、神様と直接話ができるわけではないし、
全能の神が、なにゆえ人間という不完全なものを作ったのかなんて、
だれにも説明できる訳がないから、ぼやくしかないのでは?
by 小父蔵 (2008-03-04 19:53) 

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