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科学とオカルト [科学]

科学とオカルト (講談社学術文庫)

科学とオカルト (講談社学術文庫)

  • 作者: 池田 清彦
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2007/01/11
  • メディア: 文庫


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 はじめに

 現代は科学技術の時代だと言われる。我々の身のまわりには、科学技術が作り出した様々な便利な道具や品物があふれている。自動車やパソコンは言うに及ばず、住む所も着る物も、大抵は科学技術が作り出したものだ。我々はもはやこれらのものなくしては一日たりとも生きていけそうにない。
 一方、科学技術は原子爆弾やらBSE(牛海綿状脳症、いわゆる狂牛病)やらを作り出し、近未来において大きな問題になるだろう自然生態系の破壊や環境変動の元凶でもある。日本の小学五年生の半分以上は、世の中の悪いことのほとんどは科学が原因、と思っているという新聞記事を読んだことがある。
 こういった科学へのアンビヴァレント(愛憎こもごも)な社会の想いを半分くらいは反映してか、1996年、アメリカでは科学を神聖視したがる科学の専門家と、科学を相対化したい科学論者の間で、「サイエンス・ウォーズ」という聞くだに仰々しい論争が起きた。
 ソーカルという物理学者が『ソーシアル・テクスト』という科学批判論者たちの牙城のような雑誌に、いかにもこの雑誌に掲載されそうな論文を投稿し、レフェリー(論文審査員)の目をごまかしてこの雑誌に掲載されるや否や、掲載された論文は実は自分がでっちあげたインチキ論文だったと他紙に暴露したとうエゲツない事件まで起きて、サイエンス・ウォーズはちょっとした泥仕合になったようだ。ソーカルは『ソーシアル・テクスト』誌に載る論文などは、自分のインチキ論文と同程度なものだと言いたかったのだろう。
 この事件では、寝首をかいた方が科学者で、寝首をかかれた方が科学論者だというところが何とも面白い。普通は寝首をかかれる方が正統派の主流で、寝首をかく方が反主流派の異端なのである。だからアメリカでは、職業的科学者の方が今や反主流になりつつあるのかも知れない。少なくとも職業的科学者たちが危機意識を持ちはじめたことは確かであろう。
 ところで、職業的科学者と科学論者の論争など我関せずと、オカルトにはまる人も後を絶たない。オウム真理教は超能力の獲得をめざしたオカルト信者たちのカルト宗教(狂信的な新興宗教)であったし、アメリカでもUFOや宇宙人を信じるといったオカルトが大流行であるという。ここで言うオカルトとは、神秘的、超自然的な現象、あるいはそれを信じること、ととりあえず考えてくれてよい。この広い社会の中には、サイエンス・ウォーズに夢中な人もいれば、オカルトにはまっている人もいるわけだ。

 社会、科学、オカルトと書けば、何やら三題噺めいてくるが、一体この三つにはどんな関係があるというのか。それがわからないと、「科学」というものの本当のところはわからない。何をかくそう、それこそが本書のテーマなのである。
 十九世紀までは、現在のような制度化された科学はなかった。そればかりか、今日、科学の重要な特徴と考えられている客観性や再現可能性を有した学問それ自体もなかったのである。それでは何があったかというと、オカルトがあったのだ。今日我々が偉大な科学者であったと考えているケプラーやニュートンも実のところはオカルト信者だった。しかし、十八世紀まで、オカルトは別にいかがわしいものではなかった。第一章では錬金術師パラケルススを引き合いに出して、そのことを論じたい。また近代以前の「科学」が、どのようなものであったかも概観しよう。
 十八世紀末にフランス革命が起こり、身分制度が崩壊すると、それまではギルド(特権的同業組合)が担っていた技術の伝承を、社会全体が担わなければならなくなり、技術は公共化せざるを得なくなってくる。それと同時に、技術を体系づけるものとしての理論もまた公共化してくる。秘伝という形でしか継承されなかったオカルトの理論は、客観性と再現可能性という二つの公共性を担保にして科学になったのである。科学とは実に、オカルトの大衆化だったのである。第二章ではこのことを述べる。
 第三章では、客観性と再現可能性で理論武装した科学のその後について述べる。科学はその発展の必然の結果として、難解化し、巨大化し、普通の人にはわけのわからぬものになりつつある。客観性、再現可能性は専門科学者の間でのみ通用する公共性となり、普通の人にとっては科学は有難い御託宣か、あやしげなオカルトまがいのものになってきたのだ。それとともに、現代版オカルトがはびこりだしてきたのである。
 ところで、科学が極限にまで進歩すれば、この世界のすべての現象が説明可能になると考えている人がいるとすれば、それは間違いである。第四章では、科学はくり返し観測される現象を説明することはできても、一回性の出来事は説明できないことを論じる。人はなぜ老化するか、という問いに、いずれ科学は答えられるようになるかも知れないが、あなたの生きる意味は何か、といった問いに科学は決して答えることができないのだ。同時に、科学は因果関係を解明しているわけではなく、対応関係を解明しているだけであることも論じたい。
 十八世紀まで、オカルトは森羅万象を説明するものであったが、徐々に科学に蚕食されて、現代のオカルトの最大の生息地は心的領域になった感がある。しかし、それも安住の地とは言い難いようだ。第五章では、科学は心の何を解明しつつあり、原理的に何を解明できないかについて私見を披露したい。
 現代は大衆民主主義と資本主義と科学技術の時代である。人々は原則平等という権利と引き替えに、細かい差異化過程に巻き込まれ序列化されることを余儀なくされる。このような社会の下で疎外され、自己実現ができないと思い込んだ人々はオカルト信者の候補者となる。現代のオカルトは「かけがえのない私」探しのアイテムなのだ。オウム真理教の信者や宇宙人を信じている人の例を挙げて、第六章では、現代社会において、人はなぜオカルトを信じるのかについて論じる。
 「かけがえのない私」探しのアイテムはオカルトばかりでなく、カルト宗教もまたそうである。第七章では、オカルトとカルトの危険な関係について述べよう。
 さて、この先、科学とオカルトはどこへ行くのだろう。それが最終章のテーマである。現在のような科学制度は、今後も引き続き存在するのだろうか。それとも変貌を余儀なくされるのだろうか。科学が変化すれば、科学の影であり鏡でもあるオカルトもまた変化せざるを得ない。未来のオカルトはどんな相貌を見せるのだろう。
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 オカルトを大衆化したのが科学である。なんて言ったら、そんな馬鹿なといって、今の人は信じないかもしれません。

 十八世紀までは、近代科学はなかったのです。科学は十九世紀になってから登場したのです。それまでは、オカルトが森羅万象を説明していたのです。日本には、八百万の神様がいるのは有名ですが…

 科学とは、客観性と再現可能性によって理論武装したオカルトに過ぎないのです。

 また、科学は因果関係を解明しているのではなくて、対応関係を解明しているにすぎないのです。ヒトという生き物は、柳の下のドジョウのように、因果関係の無いモノに因果関係があると錯覚しやすい生き物なのです。

 科学は解ったつもりの錯覚にすぎない場合がほとんどだというのも、一つの真理ではないかと私は思います。

(by 心如)

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【おまけ】

◎ゆで卵
問い:ホムシーがゆで卵づくりに失敗。なぜ?
答え:料理方法がわからなかった。

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TPP 04.jpg
 野田内閣の支持率が49%もあるはずがない。読売新聞は名称を国売新聞と改めるべきかも… 国内農業は競争力よりも自給率を高めるべきだ。最低でもカロリーベースで90%くらいはないと、いざというときには国民が飢餓に苦しむことになりかねない。


TPP 05.jpg
 国益の視点でというが、その国益はどの国の国益なのか問いたくなります。本当に、日本の国益を考えていますか? 他所の国が日本に何を求めているかよりも、日本が他の国に何を求めるのかがまったく見えてこないのは変です。あと、消費税率の引き上げなんて誰も望んでいません。TPPに参加し、日本の産業と農業が衰退していくのに… 消費税率を引き上げても税収が増えるはずがないと思わないのだろうか?
 


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コメント 2

大将

化学もオカルトも人が作ったものですもんね
by 大将 (2011-11-15 20:12) 

心如

大将さん、コメント 有り難うございます
 宗教もオカルトも科学も、人類の営為の一部でしかありません。完璧な人間なんて存在しないのだから、宗教もオカルトも科学も完璧では在り得ないということを忘れてはいけないのです。
by 心如 (2011-11-15 22:38) 

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