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学習指導要領は誰のためにあるのか!? [雑感]

 別記事『学校教育を破壊したのは誰か?』で、日本の学校教育は安易に学習指導要領を弄くりまわす者が破壊したのだということを紹介しましたが、間違った学習指導要領によって、どんなことが実際に起きているのか説明された文章を紹介します。 

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 間違った学習指導

 ■学習指導の破綻

 専門家が検討した学習指導要領によって教育内容が決められ、検定を受けた教科書を使って授業が行われることで、信頼できる教育が確保されていると考える人もいるでしょう。

 ところが、現実は逆です。

 日本の学習指導要領には、大きな欠陥があります。「ゆとり教育」による支離滅裂な学習内容の削減や変更は、十分な研究も検討もせずに教育内容が変えられていることを、すべての人に明らかにしたのです。

 子供達の成長や必要とする能力を十分に検討し、検証して行われる改正ならば、大きく変更されることも、変更理由の詳細な説明をしないこともありません。必要な調査も研究もせず、出鱈目な改正を行っていることは明らかです。

 そのため、教科書にも大きな欠陥があります。学習指導要領が、子供達の発達に適した学習内容を研究して改正したものではないのですから、教科書も十分な研究をして作ったものではありません。

 学習指導要領とその解説書による細部までの規制と、検定員の指摘をクリアすることだけが、教科書づくりになっています。デタラメに変わる学習指導要領に合わせ、間に合わせに作る教科書です。その上に、教科書無償給与制度によって安価な作成が要求されるのですから、良いものばできないのが当然と言えば当然です。

 「子供が、学習内容をしっかり理解できるように」「良い学習の仕方を身に付け、高い学力が身に付くように」と、良く工夫した教科書を見つけることは、全くできません。「これは素晴らしい」と教員の評判を得た教科書は、これまで一点もありません。

 現在、学校で使われている教科書は、「学習の目的は何か」「どのように学習するのか」等々、最低限必要な説明もない欠陥教科書がほとんどです。子供の学習に全く役に立たないどころか、子供の理解を混乱させる不出来な物も少なくありません。

 教科書は、学習指導要領という法律に従って作られ、教科書検定を通過したものです。ところが「新しい知識を学ぶために、子供が喜んで読む教科書」ではなく、教員が使いたがらず、子供の興味も関心も引きつけません。教員すら何を学習させるのかを迷う教科書では、子供達の学習に役立つはずもありません。

 膨大な数の教科書が発行されながら優れたものが全く無いという事実は、教科書の作成が、教員の指導や子供達の学習を支援するために作られていないことを明らかにしています。教科書検定制度は、良い教科書を作らせるのではなく、欠陥教科書を作らせる仕組みとなっているのです。

 更に大きな問題は、教科書の使用を命令されている教員が、教科書選択の理由も、想定する指導方法も知らされていないことです。

 教員は、「なぜ、このような教材が選ばれたのか」「どのように教えたらよいのか」と、「なぞ解き」をしながら教えているのです。これが、誰も言わず、誰にも言えない現在の日本の授業の秘密です。しかし、教科書の扱い方を知らずに指導しているなど、どのような恥知らずの教員も口に出来ません。

 教員は指導方法が分らず授業をし、子供は何を学習しているのかも理解できずに指導を受けているのが、現在の日本の教育の実態なのです。

 「誤った学習指導要領とポンコツ教科書が、教育を荒廃させている」とも言える程に、学習指導のシステムにデタラメがあります。「大事は小事に宿る」と言いますが、欠陥教科書を作らせている異常な教育行政こそが、教育を腐らせる原因です。

 欠陥教科書が欠陥授業を生み、指導力不足教員を育て、教育腐敗を作り出しています。学校の授業レベルが最低と言えるほど低下した原因は、出鱈目な学習指導要領とポンコツ教科書の使用を命じたことです。

 学習指導要領が定める教育内容の欠陥が誰にもはっきり解るのは、国語教育と英語教育です。日本人の国語力は急激に低下してきています。文章力の低下、言葉遣いの乱れなどは、日常的に気付くことです。また、英語学習を長期間行っても、日常の会話力も身に付かないことが、国際化時代の日本の発展に大きな影を落としています。


 ■言語指導の出鱈目

 『日本人の脳』(大修館書店)の著者・角田忠信氏は、表意文字と表音文字を交えた日本語の特性が、日本人の特異な脳の働きを生み、優れた能力を培っていることを明らかにしました。日本語は、柔軟な表現力、速読可能な利便性などを備えた優れた言語であるばかりでなく、日本語学習を通して日本人に優れた能力を授けてきたのです。

 しかし、『日本語の起源』(岩波書店)の著者・大野晋氏は、このままでは日本語が消えると憂慮しています。『国家の品格』(新潮新書)の著者・藤原正彦氏は、英語教育より国語教育を行えと言っています。民族の原点である国語が、これほど疎かにされている国はありません。

 授業時間の異常な少なさも原因ですが、多くの図書に囲まれ、すべての教育が日本語で行われているにも拘らず高い国語力が身につかないのは、指導方法と教育内容に根本的な欠陥があるからです。

 それを証明しているものに、フィンランドの国語指導を紹介した『図解フィンランドメソッド入門』(北川達夫著 経済界)という本があります。

 カルタを使って発想を広げ豊かな表現力を育てる方法。フォーマットや問答を使った論理的な言語能力の育て方。言葉を巧みに使うための指導。的確な表現力を育てる文章指導。コミュニケーション能力を育て議論を深める話し合いの指導方法など、フィンランドの教室で行われている学習訓練を具体的に紹介したものです。

 著者は、外交官を退職後に英語指導をしていたのですが、国語教育の欠陥に気付き、フィンランドの教科書を翻訳するなどして、高い言語能力が身につく指導法の普及に取り組んでいる方です。薄い本ですが、日本の国語教育の誤りや欠陥を、明瞭に見て取ることが出来ます。

 簡単に言えば、日本の国語教育では、テストの答えを見つける方法を指導するだけで、言語能力を高めるための計画的な訓練が行われていません。すべての教科に言えることですが、学習指導要領が、指導方法や訓練方法を示すことなく目標だけを示しているため、指導が支離滅裂で、必要な訓練が行われないのです。

 それに対して、フィンランドの教育では、目標と学習活動、教材が一体になっています。

 何を学習するのか、どのような訓練をすれば国語力が向上するかは、教科書に書いてあります。そして、その訓練を行う場が、学校です。身に付けるべき能力を明確にし、行うべき訓練方法を示し、教師が適切な指導や助言を行うことは、良い授業の鉄則です。目標と学習方法を理解して練習に取り組み、それを高いレベルの指導訓練を受けた教師がサポートすれば、学力が向上するのは当然です。

 ところが、日本の国語教育では、教科書が悪文ばかりである上に、どのように学習したら国語力が向上するのかが、全く分りません。目標も訓練方法も不明確な上に、教材も教師の指導も不充分なのですから、いくら勉強しても学力が身に付きません。新米教師の授業と同じで、学力を高めるために必要なポイントが、すべてピンボケなのです。

 さらに、学習内容では、表現活動が決定的に不足しています。

 文章を書くことや話すことが、物事をしっかり理解し考える活動でもあることは、だれでも経験で分ることです。そして、それが、国語力を身に付ける最も効果的な学習であることも、気付いていることでしょう。

 物事を深く捉え、考えたことを詳しく伝えようとすれば、語彙を増やすことや言葉の使い方を工夫することが必要になります。そのため、社会や生活などへの理解が深まるとともに、豊かな言語能力を獲得できるのが、自然な成長の姿です。

 ところが、日本の国語教育は、話すことや文章を書くことの計画的な訓練を全くと言って良いほどに行っていない実態があります。作文教育の優れた研究や実践があったのですが、現在では、ほとんど行われていません。

 その結果、日本人は、表現活動が不充分であるため論理的思考力が向上せず、物事を深く考えられないために言語能力が向上しないという悪循環に陥っています。教員自身も不十分な教育を受けてきたため、作文の添削もできない者が少なくありません。

 また、国語を学ぶことは、民族の歴史や文化を学ぶことです。言語には、民族の歴史や文化が刻み込まれています。国語が滅びれば民族が滅びる、と言われる所以です。そのため、言語能力の低い国民を育てることは、民族の生存を危うくします。文科省は、愛国心教育を叫びながら、民族を滅亡させかねない愚かなことをしているのです。

 ■英語教育の欠陥

 英語教育にも、同じような愚かさがあります。英語は、実質的な世界共通語です。高齢者には必要なくても、若者には必要不可欠な生活技能となることは、疑うことすら愚かなことです。

 現在のグローバルな経済は、インターネットと英語が作っています。そのため、ヨーロッパでもアフリカでも、英語学習に注力していない国はありません。中国では、小学校一年から始めています。外国語能力の低さは、地球時代の子供達の生活能力を低下させ、生存を危機にさらします。経済発展にも国際関係づくりにも大きな妨げになります。

 しかし、英会話力が身に付かない指導の欠陥は、度々指摘されてきたことですが、現在も全く改善されていません。

 日本人の英語学習に越え難いほどの困難があることは、これまでの英語教育が証明しています。英語を学ぶ人の多くが挫折するのは、構文、発音などに、大きな違いがあるからです。インターナショナルスクールなどからも、日本人の語学習得には、他国の人より多くの時間を必要とすることが報告されています。

 特に、聞き取りに難関があります。英語を聞き取ることが難しく、一生、簡単な会話さえ聞き取れない日本人がほとんどです。聞き取れない英語教育は、聾者の言語学習です。聞き取れなければ、会話が成立せず、語学力が身につくはずもありません。

 日本人の外国語学習には、バイオリンやピアノを学ぶのと同じ困難があるのです。早期から適切な訓練を受ければ、多くの者が繊細な音色を聞き分け、楽器を使いこなすことが出来るようになります。しかし、学習の開始を遅らせれば、才能のある者しか技能を身に付けることが出来ません。

 そのため、日本人の特性にあった適切な訓練方法が必要です。語源の同じ西欧諸国でさえ、小学校低学年から少人数で英語教育を行い、高い能力の獲得に取り組んでいます。日本の英語教育の研究も指導体制も、あまりにお粗末です。

 ところが、小学校五、六年の担任が、週一時間だけ英語指導を行うという今回の学習指導要領の改正は、一体何なのでしょうか。「外国語教育の改善に取り組んでいる」と言い訳するためだけの改革であることは、誰が見ても明らかです。

 早期の英語教育は国語の習得を困難にする等の意見は、間違いです。フィンランド語も極めて特殊な言語ですが、フィンランド人は高レベルの国語力と英語力を身に付け、バイリンガル(二カ国語話者)となっています。英語だけでも生活できる社会であることは、堀内都喜子氏が『フィンランド 豊かさのメソッド』(集英社新書)に書いています。フィンランド国は、国際化時代に対応した教育を行い、日本は怠っているだけなのです。

 子供達を国際社会で活躍できるようにするには、早期教育の充実が必要です。基礎教育を充実させ、逆に、高校や大学での英語教育は、必修から外すべきです。基礎が身についていない者に無理に取り組ませても、「労多くして益無し」です。若者の能力開発を害し、第二の益川敏英博士の出現を困難にします。

 基礎教育を充実せずに、高校や大学の英語レベルを上げても効果はありません。基礎能力の欠けた者に英語で英語授業を行うのは、劣等感を与えるだけです。学習指導の基礎理論に反します。中・高からピアノを始めた者に、高い演奏能力を求めるようなものです。幼児から取り組んできた者に好都合なだけで、格差を大きくするだけです。

 ■社会を学べない社会科学習

 社会科が生活に役立たない無価値な教科になっていることにも、多くの人が気付いているでしょう。役立つのは、ジグソーパズルを解くときだけでしょうか。

 社会の仕組を詳しく知り、毎日の生活に役立てることは賢明なことですから、社会科という教科の存在が間違っているのではありません。問題は、生活に役立つ社会知識や社会技能の学習が行われていないことです。

 日本は国民主権の民主主義国家ですが、国民は行政府がどのように運営されているのかも知りません。国民は、主権者として国作りにどのように貢献し、責任を持つ必要があるかを学びません。

 また、現代史についても十分な知識を得ていません。国会が立法府として機能していない理由も、官僚政治が行われている理由も知りません。アメリカと日本がどのような条約を結んでいるのかを学ぶこともありません。

 社会科学習では、国民が最優先で学ぶべき最低限のことさえ、教えていないのです。

 オランダの歴史教育の目標は、国民が身につけなければならない歴史知識を見事に表現しています。そこから、日本の社会教育に欠けているものを、はっきりと見て取ることが出来ます。

〔オランダの歴史教育の目標〕
・現在の社会の基礎を作った歴史構造や歴史過程について知識と理解を与える。
・オランダの政治制度が現在の構造と機能を持つにいたったことについての知識と理解。
・歴史情報や情報源となる資料を取り扱う際に適用されるべき特殊の技能とアプローチの仕方を教える。
・生徒自身の生活と歴史的に発展してきた社会現象や社会発展、更に社会問題との間の関連について理解力を養う。
・生徒自身が過去についてよく熟考されたイメージを作り出すことができ、歴史的現象や歴史過程の持つ独自の性格を顧慮して自分の立場を明らかにすることができるようにする。
・卒業後の進学・職業選択・社会的位置についての決定をするという観点から、歴史と国家制度の領域についての知識と技能を養う。
(オランダの教育 リヒテルズ直子著 平凡社 P156)

 オランダの歴史教育では、国家の歴史と政治制度などを詳しく学ばせ、自分が歴史のどこにいるかを考えさせていると言えるでしょう。生徒を国民の一人として、国の歴史に参加させるための教育を行っているとも読み取れないでしょうか。

 国民に必要な歴史学習とは、今、自分が生きている社会がどのように生まれ、どのような仕組になっているか、どこに向かっているかを知ることです。民主主義国の主権者が、国がどのような経緯によって作られ、どのように機能しているのかを知っていることは、持つべき最低限の常識です。

 社会知識や歴史知識の不足した国民は、適切な権利の行使が行えず、国を危険に晒します。歴史は過去のものでも、単なる教養でもテストのためのものでもありません。

 先進国と言われる大国の国民が、近代国家の市民としての基礎的教養もないのでは、国際社会で会話も出来ません。受験レベルの政治知識しかない国会議員や大臣が多ければ、国民を守るための適切な法律作りも行政管理も出来ません。帝国主義のような政治運営をし、国民の利益を深く検討もせず安易に法律を作れば、国民は困窮させられます。

 現実に、社会知識の不足が大きな問題を作っています。

 警察官が選挙違反事件をでっち上げて無実の市民を逮捕したり、証拠も無い無実の人たちを長期間拘留して自白させたりするようなことが起きるのは、警察官や司法関係者の民主主義理解が歪んでいるからです。次々と生まれる冤罪事件は、裁判官までが、憲法をよく理解していないことを国民に知らせているのです。

 さらには、このように国民の民主主義理解が不足した状態で陪審員制度を行うことは、大きな問題を作りだす危険があります。

 日本の刑法は戦前のものを使っていますから、それを民主主義の法思想で解釈し直さなければなりません。帝国主義の法思想と民主主義の法思想は、全く正反対のものです。

 法に違反した者を罰するために刑法があると考えれば、刑罰は厳しくなります。国民の自由を守るための刑法と考えれば、法に違反しても罰を与えなくても良いとも考えます。罰しようとすれば死刑になる者も、国民を守るためなら無期懲役でよいことにもなるのです。ヨーロッパで死刑がないのは、民主主義を大切にしようと考えるからです。日本人が、死刑という言葉を簡単に言うのは、民主法の理解が浅いためです。

 民主主義理解が不十分である上に、基本的な法知識も無い中で国民が陪審員となれば、大きな混乱や不幸が生まれます。不当な刑罰を科したり、誤審の片棒を担がされたりする結果になりかねません。

 国民が裁判官を選び、更に裁判にも参加するのは、不当に国民の人権が侵害されるのを防ぐ効果があります。陪審員制度が間違っている訳ではありません。しかし、正しく運用するには、憲法や民主主義について理解し、基本的な法知識を持つことが不可欠です。

 陪審員制度は、民主主義や社会制度の理解のきっかけになる可能性もありますが、大きな不幸を作り出す危険もあります。不十分な社会科教育は、現実社会にとっての大きなリスクなのです。現在の学校教育は、余りにも出鱈目になっています。子供達の人生にとっても、社会にとっても危険です。
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 国民の血税を使って行われる義務教育において、その学習指導要領が児童・生徒のためのものではないというのが事実だとすると如何でしょうか?

 教育現場で日々苦労しておられる教員のためのものでもないようです。

 日本の義務教育の学習指導要領は、文科省のお役人が、「教育の改善に取り組んでいると言い訳をするためだけの改革」によって弄りまわされているのが実態のようです。

 そこには、国民にとって最低限度として必要な知識と能力は何かとか、その必要な知識と能力をどんな訓練で養うのかとか、その訓練をどんな方法で指導するのかといった、本来の児童・生徒とその指導にあたる教員に向けた学習指導の要領は存在しないのが真実のようです。

 学習指導要領が、本来の目的である健全な国民を育成するための義務教育とはどうあるべきかという観点で研究と検討を行って改善されないと困ります。
 何を教えるのか? その指導方法はどうあるべきか? という具体的な指導要領をきちんと研究しよく検討して改善されないといけないと思います。

 いま現在の学校教育が構造的な問題を抱えているのは事実だろうと思います。その根本的な問題の多くは、文科省の役人が自分たちの保身のために学習指導要領を弄くりまわしたことにあるというのも事実のようです。
 日本の未来を支える人的資源の育成ができない学習指導要領なんて意味がないのです。本来の目的を思い出し、児童・生徒のための学習指導要領に改めることがどうすれば出来るのか? このままではいけないと気付いている全国の教員が、間違った学習指導要領に自分の保身のために、目をつむっているとしたら… 良いモノは良い、悪いモノは悪いという当たり前のことも言えないような人間に、人を指導する資格があるのだろうかと言わざるを得ないのですが。、、

(by 心如)

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「おバカ教育」の構造―危険すぎる破綻教育の真実!

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figaro

読んでいて、私の年代でも社会科の授業は
中学も高校も現代史あたりになると、時間がなくて
ほとんどやってなかった記憶があります。
縄文時代などはやたら丁寧にやってました・・・。
by figaro (2012-07-08 23:56) 

心如

figaroさん、コメントを頂きありがとうございます
 実際の学習指導要領に何が書かれているのか。なぜ、それが教育の現場を困らせているのか。そういう観点で記事をまとめてみたいと思っています。
by 心如 (2012-07-09 06:16) 

penny

近代史からやるべきだと思うんですよね。
by penny (2012-07-09 22:45) 

心如

pennyさん、コメントを頂きありがとうございます
 日本は、太平洋戦争で負けました。戦争に負けたことは仕方ないとして、なぜあのような無謀な戦争を始めたのかという素朴な疑問に対する納得できる答えがないのだと思います。だから、明治維新や日清、日露戦争までは教えることができるが、その後のことを子供たちに教えることができないのではないかと思います。
 羹に懲りて鱠を吹くと言いますが、敗戦によって魂を抜かれてしまったのかも知れません。
by 心如 (2012-07-10 00:00) 

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